2024年04月22日
参考 笹子古墳 蒲郡市大塚町 前方後円墳または円墳 規模不詳
消滅古墳です。古墳は、三河湾を望む丘陵上に立地していました。下記のように、跡地付近に石室の石材の一部が残されているのみです。ただし、この古墳の出土と伝えられる副葬品は、東京国立博物館に収蔵され、特に鳥鈕蓋を持つ4つ小壺を有する装飾須恵器は優品として知られています。
下記の説明板では、「笹子古墳は、六〇~七〇mの前方後円墳で現在地にあったというが、大正時代に発掘開墾され、現在は、霊を供養する小さな祠と石室に使っていた石材の一部が残されているのみである。」と記されています。岩原剛さんは、「御津船山古墳、笹子古墳、赤根天王山古墳は、いずれも四〇メートル以下の小型前方後円墳であり、船山一号墳との規模の違いは隔絶している。」(『東三河の古墳』pp.63~64)と述べ、説明板の規模とは見解の相違があります。
また、『愛知県史 資料編3 考古3古墳』の「遺跡一覧表」では、「古墳名 笹子古墳、所在地 同 大塚町、墳形・規模・主な副葬品 前方後円墳・装飾須恵器・金環・銀環・勾玉」(p.798)と記されていますが、規模の記載はありませんでした。ただし、同上書の「203 大塚古墳群」の中で、小笠原久和さんは、「笹子古墳は、開墾時の記録が皆無で、前方後円墳があったという説もあるが、明治期の地形図や地元の伝承から丘陵先端部に築かれた円墳であった可能性が濃厚である。」(p.608)と述べています。また、HP.「マップあいち」の「愛知県文化財マップ 埋蔵文化財記念物」でも、「包蔵地名:笹子古墳、包蔵地内容:円墳(前方後円墳であった可能性もある)。昭和40年代?滅失、跡地に石製の祠を祀る。」と記されています。
そのため、ここではタイトルを、「参考」、「前方後円墳または円墳 規模不詳」としました。
余談ですが、古墳時代後期から終末期の東三河エリアの首長にとって、鳥鈕蓋付須恵器を副葬品とすることは、一種のステイタスシンボルであったと妄想してしまいました。まるで、東三河の企業経営者が、田原工場で製造されたレクサスや三河港で陸揚げされたドイツ車に乗車するように・・・。
大塚・相楽ふるさと博物館の説明板。
祠×2。
祠内の石室の石材。
跡地付近。南から。
奥が跡地付近。北から。
奥が跡地付近。北西から。 以上2023年12月撮影。
下記の説明板では、「笹子古墳は、六〇~七〇mの前方後円墳で現在地にあったというが、大正時代に発掘開墾され、現在は、霊を供養する小さな祠と石室に使っていた石材の一部が残されているのみである。」と記されています。岩原剛さんは、「御津船山古墳、笹子古墳、赤根天王山古墳は、いずれも四〇メートル以下の小型前方後円墳であり、船山一号墳との規模の違いは隔絶している。」(『東三河の古墳』pp.63~64)と述べ、説明板の規模とは見解の相違があります。
また、『愛知県史 資料編3 考古3古墳』の「遺跡一覧表」では、「古墳名 笹子古墳、所在地 同 大塚町、墳形・規模・主な副葬品 前方後円墳・装飾須恵器・金環・銀環・勾玉」(p.798)と記されていますが、規模の記載はありませんでした。ただし、同上書の「203 大塚古墳群」の中で、小笠原久和さんは、「笹子古墳は、開墾時の記録が皆無で、前方後円墳があったという説もあるが、明治期の地形図や地元の伝承から丘陵先端部に築かれた円墳であった可能性が濃厚である。」(p.608)と述べています。また、HP.「マップあいち」の「愛知県文化財マップ 埋蔵文化財記念物」でも、「包蔵地名:笹子古墳、包蔵地内容:円墳(前方後円墳であった可能性もある)。昭和40年代?滅失、跡地に石製の祠を祀る。」と記されています。
そのため、ここではタイトルを、「参考」、「前方後円墳または円墳 規模不詳」としました。
余談ですが、古墳時代後期から終末期の東三河エリアの首長にとって、鳥鈕蓋付須恵器を副葬品とすることは、一種のステイタスシンボルであったと妄想してしまいました。まるで、東三河の企業経営者が、田原工場で製造されたレクサスや三河港で陸揚げされたドイツ車に乗車するように・・・。
大塚・相楽ふるさと博物館の説明板。
祠×2。
祠内の石室の石材。
跡地付近。南から。
奥が跡地付近。北から。
奥が跡地付近。北西から。 以上2023年12月撮影。
Posted by じこま at 07:06│Comments(0)