2024年06月18日
参考 城宝寺古墳 田原市田原町 円墳 径20m
この古墳は、姉妹ブログ「古墳探訪 大型古墳集成」で、「番外 愛知県の古墳⑲ 城宝寺古墳」として2024年6月13日に掲載しました。前方後円墳とする『渥美郡誌』は、大正12年に発行されたもので、現在では、多くの研究者が円墳と考えています。おっさんも田原市内の横穴式石室を有する古墳が円墳であることから、この古墳は円墳だと思っています。
それでも、「古墳探訪 東三河の前方後円(方)墳集成」としたこのブログの性格上「参考」として取り上げました。
以下、『渥美郡誌』の該当箇所を引用し、姉妹ブログで掲載した内容を再録しました。
「(六)城寶寺古墳 田原町大字田原城寶寺境内にある城寶寺古墳は、東西八間、南北十二間、高さ三間あって吾郡中央部に於ける最も大きな古墳である。此の周圍は後世削り取られたので、下部は傾斜が頗る急であるが、上部の傾斜角度から推察すると、もっと餘程大きなものであった事が分る。瓢塚(おっさん註 前方後円墳)ではなかったであろうかとも思はれるが充分なる確證は得られぬ。瓢塚とすると後圓部のみが残存して、前方部は寺の廣庭になってしまったので東西が二十間以上あったであらうと思はれる。(以下略)」(『渥美郡誌』pp.119~120)より
「 古墳は、豊橋鉄道渥美線終点の三河田原駅から約100m北東にある城宝寺境内にあります。古墳の墳頂には、弁天堂が建立され、墳裾も改変されていますが、施錠されている横穴式石室から内部を覗き見ることができます。下記のように、玄室の構造は海を隔てた対岸の三重県の古墳と共通点があるそうです。
田原市のHP.の「城宝寺の豆知識1」の項目で、「城宝寺古墳は城宝寺の山門の東側にある古墳で、6世紀末から7世紀初頭に築造されたと考えられています。渥美半島には横穴式石室を持つ古墳がいくつかありますが、城宝寺古墳はその中でも大きなものです。昭和50年(1975年)に県の史跡に指定されています。 古墳の大きさは、周辺がかなり切り取られているためよくわからないところがあるものの、直径20メートル前後の円墳と推定されています。ただし、『渥美郡史』は前方後円墳であった可能性を指摘しています。 古墳の内部に副葬品等は残念ながら残されていませんでしたが、横穴式石室は全体で長さが9.4メートル以上、玄室(死者が埋葬されている墓室)の長さが6.4メートル、幅2.5メートル、高さ2.4メートルあり、その様子を外からのぞくことができます。玄室は伊勢湾を隔てた三重県の南伊勢・志摩地域の石室に見られる特徴をもっており、それらの地域との関わりが考えられています。(後略)」と記されています。
上記のように、古墳は愛知県の史跡に指定されています。
余談ですが、城宝寺には、渡辺崋山やその家族の墓所があります。その絵もおまけとして掲載しました。江戸時代に「蛮社の獄」で収監され脱獄して逃走した高野長英の人生はドラマチックですが、おっさんは蟄居を命じられその後自刃した崋山の心情にも共感すること大です。城宝寺の約800m北に位置する田原市博物館には、崋山の絶筆となった「不忠不孝渡辺登」と書かれた自筆墓表があり、重要文化財に指定されています。
田原市教委の説明板。
石室入口。石室内部。
墳頂の一部。同。墳頂の弁天堂。
全景。西から。
全景。南から。
全景。南東から。
全景。北東から。 以上2023年12月撮影。
おまけ 渡辺崋山の墓所。
石柱。
説明板。
家族の墓。
「崋山先生渡邊君之墓」。 以上2023年12月撮影。 」 姉妹ブログ「古墳探訪 大型古墳集成」より
それでも、「古墳探訪 東三河の前方後円(方)墳集成」としたこのブログの性格上「参考」として取り上げました。
以下、『渥美郡誌』の該当箇所を引用し、姉妹ブログで掲載した内容を再録しました。
「(六)城寶寺古墳 田原町大字田原城寶寺境内にある城寶寺古墳は、東西八間、南北十二間、高さ三間あって吾郡中央部に於ける最も大きな古墳である。此の周圍は後世削り取られたので、下部は傾斜が頗る急であるが、上部の傾斜角度から推察すると、もっと餘程大きなものであった事が分る。瓢塚(おっさん註 前方後円墳)ではなかったであろうかとも思はれるが充分なる確證は得られぬ。瓢塚とすると後圓部のみが残存して、前方部は寺の廣庭になってしまったので東西が二十間以上あったであらうと思はれる。(以下略)」(『渥美郡誌』pp.119~120)より
「 古墳は、豊橋鉄道渥美線終点の三河田原駅から約100m北東にある城宝寺境内にあります。古墳の墳頂には、弁天堂が建立され、墳裾も改変されていますが、施錠されている横穴式石室から内部を覗き見ることができます。下記のように、玄室の構造は海を隔てた対岸の三重県の古墳と共通点があるそうです。
田原市のHP.の「城宝寺の豆知識1」の項目で、「城宝寺古墳は城宝寺の山門の東側にある古墳で、6世紀末から7世紀初頭に築造されたと考えられています。渥美半島には横穴式石室を持つ古墳がいくつかありますが、城宝寺古墳はその中でも大きなものです。昭和50年(1975年)に県の史跡に指定されています。 古墳の大きさは、周辺がかなり切り取られているためよくわからないところがあるものの、直径20メートル前後の円墳と推定されています。ただし、『渥美郡史』は前方後円墳であった可能性を指摘しています。 古墳の内部に副葬品等は残念ながら残されていませんでしたが、横穴式石室は全体で長さが9.4メートル以上、玄室(死者が埋葬されている墓室)の長さが6.4メートル、幅2.5メートル、高さ2.4メートルあり、その様子を外からのぞくことができます。玄室は伊勢湾を隔てた三重県の南伊勢・志摩地域の石室に見られる特徴をもっており、それらの地域との関わりが考えられています。(後略)」と記されています。
上記のように、古墳は愛知県の史跡に指定されています。
余談ですが、城宝寺には、渡辺崋山やその家族の墓所があります。その絵もおまけとして掲載しました。江戸時代に「蛮社の獄」で収監され脱獄して逃走した高野長英の人生はドラマチックですが、おっさんは蟄居を命じられその後自刃した崋山の心情にも共感すること大です。城宝寺の約800m北に位置する田原市博物館には、崋山の絶筆となった「不忠不孝渡辺登」と書かれた自筆墓表があり、重要文化財に指定されています。
田原市教委の説明板。
石室入口。石室内部。
墳頂の一部。同。墳頂の弁天堂。
全景。西から。
全景。南から。
全景。南東から。
全景。北東から。 以上2023年12月撮影。
おまけ 渡辺崋山の墓所。
石柱。
説明板。
家族の墓。
「崋山先生渡邊君之墓」。 以上2023年12月撮影。 」 姉妹ブログ「古墳探訪 大型古墳集成」より
Posted by じこま at 07:06│Comments(0)