2024年01月13日

02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成

 脱線しますが、馬越長火塚古墳に関連して、「見瀬丸山型前方後円墳」を取り上げます。
 
 土生田純之さんは、「第10章考察 8.墳丘の特徴と評価」(2012年豊橋市教育委員会発行『馬越長火塚古墳群』所収)の中で、馬越長火塚古墳と同様の墳形の古墳を「見瀬丸山型前方後円墳」と仮称して、見瀬(五条野)丸山古墳・こうもり塚古墳・大野窟古墳・双六古墳・対馬塚古墳・元岡石ケ原古墳の6基を例示しています。
 土生田さんは、「見瀬丸山型前方後円墳」の特徴として、「①低い第1段と急傾斜で高い墳頂部に至る第2段後円部。②これに反して前方部は第1段、第2段ともに低い。特に墳頂部は平坦で、くびれ部から前端に近い最高所まで緩やかに上昇する。③くびれ部の外郭線はさほどくびれず、全体に細長い盾形を呈するが、第2段は強くくびれて細くなる。④後円部に比して前方部が長い。特に第2段が顕著である。」(p.338)と述べています。
 また、その歴史的意義について、「『見瀬丸山型前方後円墳』はいずれも欽明朝に外交関係で活躍した地域・氏族の首長墓とみなすことが許されるものと思われる。このように見るならば、馬越長火塚古墳被葬者の性格もおのずから定まるものであり、本墳出土品の中に渡来品をはじめその伝統をひいた遺物が多いことも頷けるのである。欽明朝は西日本の広域で国造が任命された時期であると考えられている。(中略)馬越長火塚古墳の被葬者は、欽明朝の政策に積極的に協力し、初代『穂国造』に任命された人物の奥津城であったものと思われる。」(p.340)と主張しています。

 引用が長くなりましたが、これまでにおっさんが訪問した「見瀬丸山型前方後円墳」について、「前方部から後円部」を見た絵を次に掲載したいと思います(墳丘の全長は同上書による)。ただし、元岡石ケ原古墳(福岡県福岡市)は、墳丘の全長が49mと60m未満であったため訪問していません。「『集成』ではないだらー。」

 
 馬越長火塚古墳 愛知県豊橋市 70m
  説明板。
02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成

  前方部から後円部。
02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成
        2023年12月撮影。

 見瀬丸山古墳 奈良県橿原市 318m
  説明板。
02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成

  前方部から後円部。
02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成
        2014年6月撮影。

 こうもり塚古墳 岡山県岡山市 約100m
  説明板。
02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成

  前方部から後円部。
02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成
        2017年1月撮影。

 大野窟古墳 熊本県氷川町 115~120m
  説明板。
02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成

  前方部から後円部。
02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成
        2015年11月撮影。

 双六古墳 長崎県壱岐市 91m
  案内板。
02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成

  前方部から後円部。
02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成
         2011年6月撮影。

 対馬塚古墳 長崎県壱岐市 約63m
  前方部から後円部か。
02ー0 馬越長火塚古墳関連の「見瀬丸山型前方後円墳」集成
         2011年6月撮影。



Posted by じこま at 07:06│Comments(0)
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