2024年01月29日
06 妙見古墳 豊橋市老津町 前方後円墳 49m
妙見古墳は、豊橋市南部を流れる紙田川右岸河口付近に立地し、古墳時代後期に築造されたと考えられています。
三河湾最奥の渥美湾の沿岸地域では、古墳時代前期の市杵嶋神社古墳(前方後方墳)以降、前方後円(方)墳の築造は見られませんでした。しかし、後期になると、この地域に三ツ山古墳・車神社古墳・牟呂大塚古墳などの前方後円墳が造られ、この妙見古墳は最大の規模を誇っています。
古墳は、豊橋市立章南中学校の約200m南西の国道259号線沿いに位置しています。墳丘は木々で覆われていますが、説明板が設置されている付近に墳丘に上る足場があり、眼前に背の高い後円部が出現します。ただし、後円部墳頂には大きな陥没抗があり、前方部は墓地として利用されていたため平坦に削平されています。
この古墳は、1988年2~3月に墳丘測量調査が実施され、以下のデータが示されています。「墳形 前方後円墳、全長 49m、後円部径 27m、後円部高 7.25m、前方部幅 25m、前方部高 4.25m以上、くびれ部幅 16.5m、比高 5m、立地 段丘」(小林久彦「妙見古墳」p.47、1993年豊橋市教育委員会発行『古墳測量調査(Ⅰ)』所収)。
余談ですが、現在伊勢湾フェリーが運航する伊良湖~鳥羽間は、古墳時代後期には、「古東海道」(律令時代に制定された東海道以前のルート)とでもいうべき海の道が確立していたと妄想しています。鳥羽の答志島には横穴式石室を有する岩屋山古墳が、海を見下ろすような場所に造られています。三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となった神島(おっさん註①)の八代神社には、古墳時代の銅鏡・頭椎大刀や須恵器などが神宝として伝えられ「伊勢神島祭祀遺物」として国の重要文化財に指定されています。そして、渥美半島先端に位置する藤原古墳群からも圭頭大刀が出土し、横穴式石室の構造も、「伊勢の横穴式石室との親縁性がうかがえる」(豊橋市美術博物館が2000年に発行した『海道をゆく ー渥美半島の考古学ー』p.90)と指摘されています。また、「副葬品の須恵器の中には海を越えた三重県鈴鹿市の岸岡山窯の製品が含まれており、環伊勢湾・三河湾の古墳時代における物流を考えるうえで意義深い。」と述べられています。(岩原剛『東三河の古墳』p.76)
「古東海道」の中継点的存在の渥美湾沿岸地域でも、妙見古墳に近接した宮脇1号墳や牟呂大塚古墳・磯辺大塚古墳から環頭大刀・圭頭大刀・頭椎大刀などの飾大刀(装飾された非実用的な儀式用大刀)が出土しています。
余談の余談ですが、飾大刀は東三河・東遠江地域の古墳から多く出土し、尾張・西三河地域からの出土はほとんどありません。「草薙の剣」をご神体とする尾張の熱田神宮付近には、断夫山古墳・白鳥古墳(おっさん註②)など大型の後期古墳が所在しているにもかかわらず、飾大刀が出土していないのは不思議です。盗掘された可能性も否定できませんが・・・。
おっさん註①:河野一隆さんは、「伊勢湾の伊良湖水道に浮かぶ、『潮騒』の島、神島の八代神社にも島で出土したと伝えられる祭祀遺物が伝えられている。(中略)その最古のものは踏み返された画文帯神獣鏡と仿製神獣鏡であり、両者が同時期に共献(ママ)されたとすれば、五世紀後半頃から神島の祭祀が開始されたと考えられる。この時期には神島の航路上(古東海道)に当たる愛知県馬越長火塚古墳(おっさん註 この古墳の築造は6世紀後半と考えられていますが・・・。)や三重県神前山1号墳など、三河・伊勢に首長墓が陸続と築造される時期であり、神島の祭祀が出現した経緯を示唆しているようだ。そして、伊勢神島も宗像沖ノ島も、古墳が島の中には一基も築造されておらず、古墳時代の祭祀遺跡だけが営まれていることは非常に重要だ。 このような島の祭祀遺跡が五世紀後半に登場もしくは祭場が岩陰のような場所に移る事実は興味深い。それは、ほぼこの時期に日本列島では畿内系の横穴式石室の普及が始まるからだ。」と述べています。(「神と他界観の変容 ー石製祭具から見た古墳時代の観念ー」pp.254~255、岸本直文編『史跡で読む日本の歴史2 古墳の時代』所収)
おっさん註②:『尾張名所図会附録 巻2』の「白鳥山陵」の項目に、この古墳から江戸時代に出土した副葬品が図示されています。「太刀四振」として刀剣が4本描かれていますが、飾大刀ではなさそうです。
豊橋市教委の説明板。
後円部中央。右側。左側。
前方部中央。右側。左側。
前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。
後円部墳頂の陥没抗。
3つで全景(横から)。後円部。くびれ部。前方部。
全景(横から)。右奥が後円部、左奥が前方部。
墳丘への道。 以上2023年12月撮影。
三河湾最奥の渥美湾の沿岸地域では、古墳時代前期の市杵嶋神社古墳(前方後方墳)以降、前方後円(方)墳の築造は見られませんでした。しかし、後期になると、この地域に三ツ山古墳・車神社古墳・牟呂大塚古墳などの前方後円墳が造られ、この妙見古墳は最大の規模を誇っています。
古墳は、豊橋市立章南中学校の約200m南西の国道259号線沿いに位置しています。墳丘は木々で覆われていますが、説明板が設置されている付近に墳丘に上る足場があり、眼前に背の高い後円部が出現します。ただし、後円部墳頂には大きな陥没抗があり、前方部は墓地として利用されていたため平坦に削平されています。
この古墳は、1988年2~3月に墳丘測量調査が実施され、以下のデータが示されています。「墳形 前方後円墳、全長 49m、後円部径 27m、後円部高 7.25m、前方部幅 25m、前方部高 4.25m以上、くびれ部幅 16.5m、比高 5m、立地 段丘」(小林久彦「妙見古墳」p.47、1993年豊橋市教育委員会発行『古墳測量調査(Ⅰ)』所収)。
余談ですが、現在伊勢湾フェリーが運航する伊良湖~鳥羽間は、古墳時代後期には、「古東海道」(律令時代に制定された東海道以前のルート)とでもいうべき海の道が確立していたと妄想しています。鳥羽の答志島には横穴式石室を有する岩屋山古墳が、海を見下ろすような場所に造られています。三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となった神島(おっさん註①)の八代神社には、古墳時代の銅鏡・頭椎大刀や須恵器などが神宝として伝えられ「伊勢神島祭祀遺物」として国の重要文化財に指定されています。そして、渥美半島先端に位置する藤原古墳群からも圭頭大刀が出土し、横穴式石室の構造も、「伊勢の横穴式石室との親縁性がうかがえる」(豊橋市美術博物館が2000年に発行した『海道をゆく ー渥美半島の考古学ー』p.90)と指摘されています。また、「副葬品の須恵器の中には海を越えた三重県鈴鹿市の岸岡山窯の製品が含まれており、環伊勢湾・三河湾の古墳時代における物流を考えるうえで意義深い。」と述べられています。(岩原剛『東三河の古墳』p.76)
「古東海道」の中継点的存在の渥美湾沿岸地域でも、妙見古墳に近接した宮脇1号墳や牟呂大塚古墳・磯辺大塚古墳から環頭大刀・圭頭大刀・頭椎大刀などの飾大刀(装飾された非実用的な儀式用大刀)が出土しています。
余談の余談ですが、飾大刀は東三河・東遠江地域の古墳から多く出土し、尾張・西三河地域からの出土はほとんどありません。「草薙の剣」をご神体とする尾張の熱田神宮付近には、断夫山古墳・白鳥古墳(おっさん註②)など大型の後期古墳が所在しているにもかかわらず、飾大刀が出土していないのは不思議です。盗掘された可能性も否定できませんが・・・。
おっさん註①:河野一隆さんは、「伊勢湾の伊良湖水道に浮かぶ、『潮騒』の島、神島の八代神社にも島で出土したと伝えられる祭祀遺物が伝えられている。(中略)その最古のものは踏み返された画文帯神獣鏡と仿製神獣鏡であり、両者が同時期に共献(ママ)されたとすれば、五世紀後半頃から神島の祭祀が開始されたと考えられる。この時期には神島の航路上(古東海道)に当たる愛知県馬越長火塚古墳(おっさん註 この古墳の築造は6世紀後半と考えられていますが・・・。)や三重県神前山1号墳など、三河・伊勢に首長墓が陸続と築造される時期であり、神島の祭祀が出現した経緯を示唆しているようだ。そして、伊勢神島も宗像沖ノ島も、古墳が島の中には一基も築造されておらず、古墳時代の祭祀遺跡だけが営まれていることは非常に重要だ。 このような島の祭祀遺跡が五世紀後半に登場もしくは祭場が岩陰のような場所に移る事実は興味深い。それは、ほぼこの時期に日本列島では畿内系の横穴式石室の普及が始まるからだ。」と述べています。(「神と他界観の変容 ー石製祭具から見た古墳時代の観念ー」pp.254~255、岸本直文編『史跡で読む日本の歴史2 古墳の時代』所収)
おっさん註②:『尾張名所図会附録 巻2』の「白鳥山陵」の項目に、この古墳から江戸時代に出土した副葬品が図示されています。「太刀四振」として刀剣が4本描かれていますが、飾大刀ではなさそうです。
豊橋市教委の説明板。
後円部中央。右側。左側。
前方部中央。右側。左側。
前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。
後円部墳頂の陥没抗。
3つで全景(横から)。後円部。くびれ部。前方部。
全景(横から)。右奥が後円部、左奥が前方部。
墳丘への道。 以上2023年12月撮影。
Posted by じこま at 07:06│Comments(0)