2024年02月06日

09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m

 古墳は、丘陵尾根上に立地し、約200m南の丘陵頂部に前方後方墳の北長尾8号墳が位置しています。
 後円部は高さがあり、墳頂部には祠が祀られています。祠の下部には、石室の石材と思しき敷石がありました。また、前方部端付近には根元の土とともに倒木が横たわっていました。  

 この古墳は、1990年8月に墳丘測量調査が実施され、以下のデータが示されています。「墳形 前方後円墳、全長 43m、後円部径 26m、後円部高 4.25m、前方部幅 13m、前方部高 1.5m、くびれ部幅 11m、比高 40m、立地 丘陵」(小林久彦「向山1号墳」p.83、1993年豊橋市教育委員会発行『古墳測量調査(Ⅰ)』所収)。

 余談ですが、この石巻地域の前期古墳は、複数の前方後方墳と前方後円墳が「共存」しているエリアです。
 岩原剛さんは、「出現期の古墳は、西日本では前方後円墳が一般的なのに対し、滋賀県東部から東北地方にかけては前方後方墳が圧倒的に多い。(中略)また、赤塚次郎氏のように前方後円墳が卓越する地域を『魏志倭人伝』に現れる邪馬台国とその勢力圏、前方後方墳が卓越する地域をそれに対抗した狗奴国の勢力圏を反映したとする考古学者がおり、出現期の前方後方墳の評価は日本列島の古墳時代の始まりを考える上で重要である。 しかし実際には、東日本にも出現期の前方後円墳が小数(ママ)ではあるが存在するなど、理解はそれほど単純ではない。筆者は、東日本の広域に西日本とは異なる原理の古墳が産み出されたのは、方形周溝墓など方形原理に基づく墓として、東日本の人々に受け入れやすい側面があったと考える。そして前方後方墳の伝播と拡散は、政治的な意図よりも文化的な現象と捉えている。」(『東三河の古墳』p.16)と述べています。
 石巻地域の「共存」状況を考えれば、岩原さんの主張は説得力があります。それでもおっさんは、前方後方墳・S字状口縁台付甕・有孔銅鏃・伊勢湾型曲柄鍬などの文化が「東海系のトレース」として東日本に拡散していく現象を、狗奴国の勢力圏を反映したとする赤塚説に魅力を感じています。


 後円部中央。右側。左側。
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m

 前方部右側。左側。
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m


 前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m


 後円部墳頂。石室の石材?。
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m


 2つで全景(横から)。後円部。前方部。
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m

 全景。右が後円部、左奥が前方部。
09 向山1号墳 豊橋市石巻西川町 前方後円墳 43m


 姉妹ブログ「古墳探訪 大型古墳集成」の2021年1月18日のブログ「番外 北長尾8号墳のおまけの「向山1号墳」」に、2021年1月に訪問した際の絵を掲載しています。



Posted by じこま at 07:06│Comments(0)
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