2024年02月04日
08 弁天塚古墳 豊橋市賀茂町 前方後円墳 43.5m
消滅古墳です。1951年に中学校の建設にともなって消失し、跡地は現在「旭精機株式会社」の工場となっています。
工場内の立ち入りは遠慮したので、南方向から撮った絵しかありません。ただ、台地南端に築造されていたことはわかります。
森田勝三さんは、弁天塚古墳について「古墳の規模は、『八名郡史』によると高さ八尺五寸(二・八m)、前後の径一三二尺(四三・五m)、左右の径一〇三尺(三四m)である。墳形は久永春男氏(日本考古学協会員)のご教示によると、前方部を陸橋とする玦状の周溝をめぐらした帆立貝式前方後円墳。内部施設は板石を組み合わせた箱式石棺の直葬であったらしい。」(「豊橋市賀茂神社所蔵の考古遺物と賀茂遺跡群」p.90、賀茂校区文化協会編『賀茂神社誌、1989年発行)と述べています。また、同上書によれば、鏡(珠文鏡)、ガラス製丸玉、大刀、鉄鉾、装飾馬具などが出土しているそうです。
岩原剛さんも、「224 弁天塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』p.660)で、「本墳は全長43.5m、墳丘の高さ2.8mの前方後円墳と報告されている。周囲には周溝が巡り、前方部の先端で途切れていたとされている。その他の外部施設は報告されていない。」と述べています。
跡地付近。
跡地付近遠景。南から。 以上2023年12月撮影。
工場内の立ち入りは遠慮したので、南方向から撮った絵しかありません。ただ、台地南端に築造されていたことはわかります。
森田勝三さんは、弁天塚古墳について「古墳の規模は、『八名郡史』によると高さ八尺五寸(二・八m)、前後の径一三二尺(四三・五m)、左右の径一〇三尺(三四m)である。墳形は久永春男氏(日本考古学協会員)のご教示によると、前方部を陸橋とする玦状の周溝をめぐらした帆立貝式前方後円墳。内部施設は板石を組み合わせた箱式石棺の直葬であったらしい。」(「豊橋市賀茂神社所蔵の考古遺物と賀茂遺跡群」p.90、賀茂校区文化協会編『賀茂神社誌、1989年発行)と述べています。また、同上書によれば、鏡(珠文鏡)、ガラス製丸玉、大刀、鉄鉾、装飾馬具などが出土しているそうです。
岩原剛さんも、「224 弁天塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』p.660)で、「本墳は全長43.5m、墳丘の高さ2.8mの前方後円墳と報告されている。周囲には周溝が巡り、前方部の先端で途切れていたとされている。その他の外部施設は報告されていない。」と述べています。
跡地付近。
跡地付近遠景。南から。 以上2023年12月撮影。
Posted by じこま at 07:06│Comments(0)