2024年02月12日
12 権現山1号墳 豊橋市石巻本町 前方後円墳 38m
この古墳は、独立丘陵の権現山の尾根南端に立地し、約80北北東の山頂付近に2号墳があります。また、小谷を隔てて約500m北東の丘陵上に前方後方墳の勝山古墳が位置しています。1号墳の後円部は正円形ではないため、下記の発掘調査以前は「前方後方墳」という見解もありましたが、現在は2号墳とともに古墳時代前期の前方後円墳であることが明らかとなっています。そのため、この石巻エリアは前期の前方後円墳と前方後方墳が「共存」する地域となっています。
「第4表 権現山1・2号墳規模計測表」(p.42)で、「1号墳 全長 38.4m、後円部径 23.0m、同高さ 2.8~3.8m、前方部長 15.4m、同幅 14.8m、同高さ 1.5m、くびれ部幅 10.4m」(1997年、豊橋市教育委員会発行『権現山 平成8年度市内遺跡発掘調査事業』)と記されています。
贄元洋さんも、『愛知県史 資料編3 考古3古墳』の「232 権現山1号墳」(p.672)の中で、上記報告書のデータを掲載しています。
発掘調査を担当した岩原剛さんは、重要な場所には川原石の円礫の使用・葺石の活用や壺形埴輪の出土などから、「恐らく古墳の形や施設だけでなく、葬送の儀礼(儀式)や思想も近畿地方からとり入れられたことだろう。そのような意味で、権現山1号墳は小規模ながら、東三河地方で最初の本格的な前方後円墳と言える。築造された時期は前期後葉(四世紀半ば)である。」(『東三河の古墳』p.19)と述べています。
古墳は、「権現山古墳」という名称で、2号墳とともに愛知県の史跡に指定されています。
豊橋市教委の説明板。
後円部の説明板。
後円部墳頂。
後円部中央。右側。左側。
前方部の説明板。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。
前方部前の広場の説明板。
広場。
くびれ部の説明板。
3つで全景(横から)。前方部。くびれ部。後円部。 以上2023年12月撮影。
姉妹ブログ「古墳探訪 大型古墳集成」の2021年2月1日のブログ「番外 権現山1号墳」で、2020年8月に撮影した絵を掲載しています。
「第4表 権現山1・2号墳規模計測表」(p.42)で、「1号墳 全長 38.4m、後円部径 23.0m、同高さ 2.8~3.8m、前方部長 15.4m、同幅 14.8m、同高さ 1.5m、くびれ部幅 10.4m」(1997年、豊橋市教育委員会発行『権現山 平成8年度市内遺跡発掘調査事業』)と記されています。
贄元洋さんも、『愛知県史 資料編3 考古3古墳』の「232 権現山1号墳」(p.672)の中で、上記報告書のデータを掲載しています。
発掘調査を担当した岩原剛さんは、重要な場所には川原石の円礫の使用・葺石の活用や壺形埴輪の出土などから、「恐らく古墳の形や施設だけでなく、葬送の儀礼(儀式)や思想も近畿地方からとり入れられたことだろう。そのような意味で、権現山1号墳は小規模ながら、東三河地方で最初の本格的な前方後円墳と言える。築造された時期は前期後葉(四世紀半ば)である。」(『東三河の古墳』p.19)と述べています。
古墳は、「権現山古墳」という名称で、2号墳とともに愛知県の史跡に指定されています。
豊橋市教委の説明板。
後円部の説明板。
後円部墳頂。
後円部中央。右側。左側。
前方部の説明板。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。
前方部前の広場の説明板。
広場。
くびれ部の説明板。
3つで全景(横から)。前方部。くびれ部。後円部。 以上2023年12月撮影。
姉妹ブログ「古墳探訪 大型古墳集成」の2021年2月1日のブログ「番外 権現山1号墳」で、2020年8月に撮影した絵を掲載しています。
Posted by じこま at 07:06│Comments(0)