2024年02月22日
17 狐塚古墳 豊橋市石巻平野町 前方後円墳 約33m
前にも書きましたが、豊橋市の石巻エリアには、古墳時代前期の前方後円墳3基、前方後方墳も3基が丘陵上に築かれ、「王家の丘」とでもいうべき地域です。ただし、このエリアでは中期に入ると、前方後円(方)墳の築造は見られなくなります。後期になると石巻エリアに隣接する賀茂町に前方後円墳の弁天塚古墳が造られ、この狐塚古墳の築造以降再び石巻エリアが「王家の谷」として復活し、そのピークが馬越長火塚古墳と言えるのではないでしょうか。
狐塚古墳の現状は、周囲を柿木畑に囲まれ、墳丘は草木で覆われています。そのため、後円部墳頂の石材がなければ、雑木林として見逃がしてしまいそうです。
岩原剛さんは、「228 狐塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)で、「本墳は全長35m、後円部径20m・高さ3m、前方部長14m・幅13m・高さ2.9mを測る前方後円墳である。帆立貝形古墳ともいわれるが、測量調査が行われていないためはっきりしない。」(p.667)と述べています。
ただし、同氏はその後発行された『東三河の古墳』の中で、「六世紀前葉に全長四三メートルの前方後円墳・弁天塚古墳が賀茂台地に築かれると、前方後円墳が首長墓として継続する。六世紀中葉には全長三四メートルの狐塚古墳、そして六世紀の末葉から七世紀前葉にかけて、馬越長火塚古墳群が築かれた。」(p.65)と述べています。そのため、ここでは後者の数値を参考にしました。
後円部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
後円部の石室の石材。
後円部墳頂の天井石。
後円部端全景。東から。
全景(横から)。中央奥が後円部、左奥が前方部。南から。 以上2023年12月撮影。
狐塚古墳の現状は、周囲を柿木畑に囲まれ、墳丘は草木で覆われています。そのため、後円部墳頂の石材がなければ、雑木林として見逃がしてしまいそうです。
岩原剛さんは、「228 狐塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)で、「本墳は全長35m、後円部径20m・高さ3m、前方部長14m・幅13m・高さ2.9mを測る前方後円墳である。帆立貝形古墳ともいわれるが、測量調査が行われていないためはっきりしない。」(p.667)と述べています。
ただし、同氏はその後発行された『東三河の古墳』の中で、「六世紀前葉に全長四三メートルの前方後円墳・弁天塚古墳が賀茂台地に築かれると、前方後円墳が首長墓として継続する。六世紀中葉には全長三四メートルの狐塚古墳、そして六世紀の末葉から七世紀前葉にかけて、馬越長火塚古墳群が築かれた。」(p.65)と述べています。そのため、ここでは後者の数値を参考にしました。
後円部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
後円部の石室の石材。
後円部墳頂の天井石。
後円部端全景。東から。
全景(横から)。中央奥が後円部、左奥が前方部。南から。 以上2023年12月撮影。
追記(2024年7月19日)
2024年3月に豊橋市教育委員会が発行した『馬越長火塚古墳群(Ⅱ)』の「付載 周辺の古墳の調査」の「4 狐塚古墳」では、「平成23年(2011)に、古墳の性格把握を目的に墳丘の測量調査を実施した。」、「本墳の墳端は、標高47mのコンタライン付近と考えられ、墳丘の規模は以下のとおりである。 全長約33m 後円部径24m、同高さ3.0m、くびれ部幅18.0m 前方部長9.0m、同高さ2.5m、同前端幅17.0m」(p.55)と述べられていました。そのため、規模については、市教委の報告書を参考に約33mと訂正しました。
2024年3月に豊橋市教育委員会が発行した『馬越長火塚古墳群(Ⅱ)』の「付載 周辺の古墳の調査」の「4 狐塚古墳」では、「平成23年(2011)に、古墳の性格把握を目的に墳丘の測量調査を実施した。」、「本墳の墳端は、標高47mのコンタライン付近と考えられ、墳丘の規模は以下のとおりである。 全長約33m 後円部径24m、同高さ3.0m、くびれ部幅18.0m 前方部長9.0m、同高さ2.5m、同前端幅17.0m」(p.55)と述べられていました。そのため、規模については、市教委の報告書を参考に約33mと訂正しました。
Posted by じこま at 07:06│Comments(0)