2024年03月17日
23 牟呂王塚古墳 豊橋市牟呂市場町 前方後円墳 27.5m
古墳の築造当時は、豊川左岸の三河湾の最奥部に半島状に突き出した先端部付近に立地していたと思われます。
前期前半の前方後方墳である市杵嶋神社古墳が、約150m南西に位置しています。ただし、後期後半に築造されたと考えられているこの古墳とは、築造時期が約300年も離れています。岩原剛さんは、「牟呂王塚古墳が7世紀初頭に築かれており、東海地方で最後に築かれた前方後円墳でもある。」(『東三河の古墳』p.72)と述べています。
前方部は、道路や宅地で消失しており、方形に区画された後円部の墳頂には、王塚天王社の社殿が建立されています。説明板がなければ、ここに古墳が存在していたと気づくことはありません。
この古墳からは、1879年の発掘調査で、金銅装圭頭大刀や金銅装心葉形杏葉・金銅装飾金具・馬鈴といった馬具などが出土し、出土品が現在の東京国立博物館に収蔵されていることで知られています。
岩原剛さんは、「240 牟呂大塚古墳」で、「(おっさん註 1988~97年の発掘調査で)検出された周溝から本墳は前方後円墳と判明した。規模は全長約27.5m、後円部径約18m、前方部長約9.5m・幅約24mを測る。周溝は墳丘を全周せず、前方部の前面で途切れていた。」(p.692、『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)と述べています。
豊橋市教委の説明板。
後円部跡付近。
後円部墳頂付近。
前方部跡から後円部跡付近。
ほぼ全景跡(横から)。右が後円部跡、左が前方部跡。 以上2022年11月撮影。
前期前半の前方後方墳である市杵嶋神社古墳が、約150m南西に位置しています。ただし、後期後半に築造されたと考えられているこの古墳とは、築造時期が約300年も離れています。岩原剛さんは、「牟呂王塚古墳が7世紀初頭に築かれており、東海地方で最後に築かれた前方後円墳でもある。」(『東三河の古墳』p.72)と述べています。
前方部は、道路や宅地で消失しており、方形に区画された後円部の墳頂には、王塚天王社の社殿が建立されています。説明板がなければ、ここに古墳が存在していたと気づくことはありません。
この古墳からは、1879年の発掘調査で、金銅装圭頭大刀や金銅装心葉形杏葉・金銅装飾金具・馬鈴といった馬具などが出土し、出土品が現在の東京国立博物館に収蔵されていることで知られています。
岩原剛さんは、「240 牟呂大塚古墳」で、「(おっさん註 1988~97年の発掘調査で)検出された周溝から本墳は前方後円墳と判明した。規模は全長約27.5m、後円部径約18m、前方部長約9.5m・幅約24mを測る。周溝は墳丘を全周せず、前方部の前面で途切れていた。」(p.692、『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)と述べています。
豊橋市教委の説明板。
後円部跡付近。
後円部墳頂付近。
前方部跡から後円部跡付近。
ほぼ全景跡(横から)。右が後円部跡、左が前方部跡。 以上2022年11月撮影。
Posted by じこま at 07:06│Comments(0)